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「属すること」で得られる自己存在の基盤

前にも少し書きましたが
私は元来、どこか一つの所にじーっと属するタチではありません。
好奇心は全方向性ですしww
あちこち飛び回りながら、必要なものを得て
お客様に提供するというスタンスですね。

これは、小さい頃から
どことなく「何かに属する」ことへの危険性を
かぎ取っていたからかも知れません。

 

「信者」という生き物

小さい頃、我が家には時々
某宗教団体のちょっとえらい人と信者さんが集まって
何かをしている、ということがありました。

えらい人は何やらありがたい事?をしており
それを信者さん達が崇めている。
でも、それは幼い私にとっては
「何故そんなものを崇めるのか、理解不能なもの」でした。

だって、お札はただの文字が書かれた紙でしかなく
掛け軸はただの絵に過ぎなかったのですから。

時がたち、大学生の頃
とある宗教団体に関わることになりました。
当時好きだった人が、その団体にどっぷりはまっていたため
一緒に支部に出入りしたり、イベントに出たりしていました。

でも、そこでも同じでした。
彼らは自分という存在を成り立たせるための
基盤として、宗教という団体を選んでいるだけ。
存在の基盤を強固にするために、そこでしか通じない用語を使い
教義を信じ、教祖を崇めているだけ。
そこに神はいない、ただ人がいるだけでした。

てことで、あっさりと団体を抜け
その人とも疎遠になってしまったのでしたw

 

脱会者支援組織を作ってました

その後、ネットで知り合った仲間数人と
その団体の被害者支援組織を結成しました。
弁護士の先生も巻き込んだ、結構本格的な物でした。

脱会したいと思っている人を手助けし、脱会に持って行くだけでなく
その後のメンタルケアも含めた活動をしていました。

訴訟を乱発する団体だったため、身バレしないために
それはそれは細心の注意を払っていました。
お陰で、いらん知識もいっぱいつきましたけどねwww

その活動を通して、脱会した人が
どう言った心理状態を辿るのかを、目の当たりにしました。

中には、強烈なアンチとなりまして
えんえんその団体を非難し続ける人もいましたが
これも「批判者」という立場に変わっただけで
団体に捕らわれているのは、信者時代と何も変わらないんですよね。

そして、脱会しても
結局別の団体に属したり、伝統宗教に回帰したりという
転帰を辿る方が非常に多い事も知りました。

無害な宗教に属しているならいいじゃない、と
言っていた人もいましたけど
結局、それってその人は何も変わっていないんだな
まるであちらの船からこちらの船に乗り換えているだけで
「属する」という所からは一歩も出ていないんだよなぁ・・
と、何とも複雑な気分になっていました。

 

自己存在の基盤は、宗教だけではなかった

更に気づいたことですが
脱会後、宗教に属することはもうしない!と決意した人達が
仕事にのめり込んだり、育児に熱心になったりするんですね。

これも、結局同じなんです。
「宗教」という、日本では色眼鏡をかけてみられるような船から
「仕事」とか「親」という
人間基準では安全安心、無害な船に乗り換えただけ

・・この辺で、あれおかしいぞ
つまり生きている以上、人間はそうやってひたすら色んな船に乗って
そこでの役割を演じなければ、人間として成り立たないのか?となり
色々調べているうちに、瞑想の師匠のサイトに出会ったんですが
それはまた後日の話ということで。

 

属さなければ、人間は成り立たないのか

正直なところ、まだこれに関して答えは出ていません。
ただ、属性はあくまで属性に過ぎず、自分ではない所を見ると
何の属性もなくても、自分という存在は無くならないようです。
しかしこれが人間という形かどうかは、今の私には分かりません。

 

属すことで得られる安心感は、優しくあなたの首を絞める

宗教に限らず、会社という組織でも、ビジネスセミナーという枠でも
とにかく人というのは、何らかの属性を持ちたがります。
これは、自分という存在を認識するための手段として
属性を求めているわけです。

この属性を通して、自分を認識することで
人は安心感を得ます。
自分が存在しているという、根本に関わる部分の安心感ですね。

だからこそ、宗教団体の脱会のように
そこから属することをやめるのは、非常に苦痛を伴うのです。
何せ、自分の存在の基盤が、足下から崩れるわけですから。
自分という存在が無くなる恐怖、これは言葉では著せません。

そしてそれ故に、速やかに
新しい存在の基盤となるものを探し出すように出来ているんですね。

でも、属性は所詮属性。あなた自身ではありません。
先日述べた、感情や思考と同じ、あなたそのものとは違う
ただの装飾物、アクセサリーなのです。

 

属するなとは言わない、でも気づいて欲しい

何かに属するという選択が、悪いわけではありません。
そもそもどんな行為にも、善悪をつけるのは人間の勝手です。

ただ、属するという行為が、そこで安心感や連帯感を得ることが
更にそこから離れるときに不安に駆られるということが
何故、どこから、どの様にして起こっているのか
この拙い文章から、少しでも気づいてくれれば幸いです。

そうすれば、例えどこかに属していたとしても
あなたの中心は、どこにも属さずに立てるようになりますから。

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この記事を書いた人

1979年生まれ。香川県出身。

幼い頃から医師を志し形成外科医として数年勤務するも妊娠・出産にて体力が落ちてしまい、医療現場への疑問も相まって復帰を断念する。
その後サイトアフィリエイター、外資系決済サービスのエージェント、オフショアビジネスのサポート事業などを経て、現在は13歳の男の子を連れてマレーシアに親子留学し8年目。

家族は日本に住んでいる主人(かわいい)と12歳の息子。

趣味はお絵描き、ボードゲーム、ドール(フルチョSDMオーナー)・器楽演奏(ピアノ・リコーダー)・瞑想と多岐に渡る。

主人にプロポーズされた日に「45歳まではあちこち手を出してもいいよ、45くらいになったらそろそろまとめていってもいいかも」と占い師に言われた通り、アラフォーになっても興味の向いた方向に全力で手を出し学び続けている。これ本当に45になる頃にまとまるんだろうか・・

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